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(2011/05/17)

ポルトガルとは

ポルトガル共和国通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家です。首都はリスボン。 正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa(レプーブリカ・ポルトゥゲザ)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名である ポルトゥス・カレの訛りに由来するとされています。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及びます。 モロッコとの間には陸上国境がなく、大西洋を挟んで南東に200km離れています。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島と マデイラ諸島を領有しています。

ポルトガルの国民と言語

ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人です。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人、 ユダヤ人、ムーア人が混血した民族です。かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、 奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには1881年から1931年までの期間にかけて実に185万人が移住しました。ブラジル以外にも ベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住し、アンゴラやモサンビークなど、 アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住しました。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、 ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えたそうです。しかし、1973年のオイル・ショックや、カーネーション革命による 植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになりました。 近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、 旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。

ポルトガルの言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)が公用語です。 1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められました。

ポルトガルの気候

本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候に属します。地域差は大きく、季節の変化も著しいようです。 大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さいため、夏は涼しく、冬は降雪を含み、 雨が多くなっています。年間降水量は1,200から1,500mm。中部の冬期は北部と似ていますが、夏期の気温が上がります。 年間降水量は500から700mm。南部は典型的な地中海性気候で、夏季の雨量が少なく年間降水量は500mmを下回ります。 ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がります。首都リスボンの気候は、年平均気温が21℃、 1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃で年降水量は706mm。

ポルトガルの音楽

ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人やカトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来ました。クラシック音楽においては、 19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を 題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、 古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆されます。 ポルトガル発のポピュラー音楽としては、特にファドが挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲスは今でも 国内外で広く愛されています。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがあります。その他にも現代の有名な ミュージシャンには、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手 ジョゼ・アフォンソの名が挙げられます。また、ポルトガルは近来、デス/ブラック/シンフォニックメタルなどのゴシック要素の 強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出しています。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、 ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ています。

ポルトガルの映画

ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまりました。 ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作されました。 オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、 1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影しました。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグと イタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、 ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍しました。

マノエル・ド・オリヴェイラ

マノエル・ド・オリヴェイラは、ポルトガル・ポルト県ポルト出身の映画監督。 マノエルの監督デビューは23歳と早かったようですが、本格的かつ定期的に作品を創り上げるようになったのは60歳を過ぎてから。 その後、幾度かの監督業休眠期間を経て、63歳の時に撮った『過去と現在 昔の恋、今の恋』以降、再び映画の演出を開始し、 1980年代に入り70歳を過ぎてからは1年に1作に近いペースで新作を撮り続けています。2006年、97歳の時に『夜顔』を撮り上げました。 2007年の第60回カンヌ国際映画祭オムニバス映画『それぞれのシネマ』に参加し、3分の短篇を撮りました。 2007年『コロンブス 永遠の海』を、2009年『ブロンド少女は過激に美しく』を監督。『ブロンド少女は過激に美しく』の撮影中に 100歳の誕生日を迎えられました。その後2010年の新作『O Estranho Caso de Angélica』を撮り上げ、さらに新作の撮影に とりかかっているそうです。

サイレント映画

ポルトガルにおけるサイレント映画の歴史は1896年にリスボンでロバート・ウィリアム・・ポールのアニマトグラフィーの上映によって 始まったそうです。

Comédia à portuguesa

Comédia à portuguesaはエスタド・ノヴォの始まった時期に始まり、最初の作品は1933年の "A Canção de Lisboa"です。このジャンルは20年の間、大変な人気を誇りました。

ノヴォ・シネマ

ノヴォ・シネマはポルトガル映画のアヴァンギャルドなムーヴメントで、このムーヴメントはドキュメンタリー同様にフィクション映画も 多く生み出しました。1970年代までつづくにいたって、「ノヴォ・シネマ」とは、ポルトガルの全映画史に存在したあまたの 革新者たちのひとつであることが明らかになりました。