
ポルトガルの歴史
ポルトガルは古代にローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受けました。レコンキスタの進行した、 12世紀にポルトガル王国が成立しました。その後海外へと植民地を獲得して隆盛を極め、近代には共和制に移り、さらに独裁政権、 無血クーデターによる民主化と激動の歴史を歩みました。
ポルトガルの古代とローマ支配
この地域には新石器時代の紀元前4500年頃には人が定住していたと言われています。ケルト人系のルシタニ族と呼ばれる先住民が 独自の文化をもって暮らしていましたが、紀元前12世紀にはフェニキア人が沿岸部に到来し、続いて紀元前8世紀ごろにはギリシア人が 植民しました。古代ローマとカルタゴの間でポエニ戦争がはじまるとイベリア半島はカルタゴの軍事拠点となり、ポエニ戦争が終結すると ローマはすでに属州にしているヒスパニアに続いてイベリア半島奥地へも征服を展開し、ルシタニ族は抵抗したが紀元前139年には 族長ヴィリアトゥスが殺され、ローマの征服は完了しました。そして「属州ルシタニア」となったそうです。
ゲルマン諸王国とイスラームの侵入
ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めました。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を 建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いたそうです。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、 キリスト教の下でイベリア半島を統一しましたが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、 西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編されました。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、 西方イスラーム文化の中心として栄えたようです。キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの 勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面から ポルトゥカーレを解放し、ヴィマラ・ペレスを最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成されました。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で 統合したことによって、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれたということです。
ポルトガル王国の盛衰
ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、ポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後ローマ教皇の 裁定によってサモラ条約が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立しました。 1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放されました。 レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都されました。1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに最終的に イングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテスの承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、 ポルトガルはカスティーリャから独立しました。そして1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立します。その後オランダによるブラジル北東部の植民地化により、 ブラガンサ朝の独立後、1646年にこれを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子は ブラジル公を名乗るようになりました。1654年にはオランダ人がブラジルから撤退し、1661年のハーグの和約で、 賠償金と引き換えにブラジルとアンゴラの領有権を認められました。広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は17世紀から18世紀にかけて 植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ちましたが、 産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年に結ばれたメシュエン条約によってイギリスとの間に経済的な従属関係が成立しました。 そして1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、 1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れました。ポルトガル本国は半島戦争に突入し、介入したイギリス軍の 占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年までリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、 ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立しました。